The Illusion
数を重ねることだけでなく、やはり何人かの特定の相手というものは居たようで、結局Mさんの記憶をたどれるのは、そういう人物に限られた。私と付き合っている頃には、Dさんとも空白の期間がある。半年ほどは、恋人が出来たからとMさん自身が自重していたのだ。その辺からDさんは切り崩していった。私のことを聞くフリをして、実際は私以外の相手を探っていったのだ。
余談だが、Dさんが私との、特にセックスに関してMさんからどういう風に聞いていたのか、さすがに私も尋ねる勇気は無かった。付き合いに関して、どういう意識だったのかも、結局怖くて聞けなかった。それを知ってしまったら、Mさん自身への興味が失せてしまうような気がして、あまり良い別れ方はしなかったが、それもまた切ない気がしてならないのだ。それよりは、Mさんが殊、セックスに奔放だったという印象のみで留めておきたい。
だから私自身のことは棚に上げて、Dさんの調査報告に耳を傾けた。Dさんはコレで全部、と明言した相手の名前を羅列したメモを見せた。そこにはOやKの名前もあった。他に何人も名前があったが、そのほとんどはDさんに聞いた時点で、既に知っていた情報だった。ただ一人だけまったく初耳の名前があった。私がそれを指摘すると、Dさんもやはり、という顔をして呻った。彼自身も、初めてその話を聞いたらしいのだ。
だから念入りに、Dさんはその男とのなれそめからセックスの詳細までを、夜を徹して聞いたということだ。早速Dさんはその話を披露してくれたのだが、冒頭から私は驚かされた。それは、その男と知り合ったのが、私との出逢いと数ヶ月しか違わなかったのだ。実際にセックスをしたのは少し後だが、それがちょうど付き合って半年、Mさんの奔放な癖が、再発した頃と重なるのだった。

Mirrors
本格的な浮気調査のように、Dさんは報告書のような書類と写真を用意していた。Mさんに問い質すだけでなく、その男の人となりを自分でも独自に調べたらしい。顔の広いDさんには、その手の調査はお手の物らしい。何人かの協力者も得て、その男とMさんの関係は虚偽を正す意味もで、ほとんどつまびらかになったのだ。それだけの調査に見合う、関係の親密さはその結果を見れば歴然としていた。
写真を見ると、どう見てもパッとしないどちらかというとくたびれた印象の男だった。明らかに私たちより年上で、それを強調するように頭髪も薄い。浮気相手として名前が出るよりも、浮気されるタイプに私には思えた。しかし、現実にMさんはこの男を選んだのだ。当然、容姿よりも惹かれる何かがあったに違いなく、それは簡単に予想できた。結局、それはMさんの価値基準を顕す結果になったのだ。
私と付き合った当時、Mさんは派遣会社に登録して、事務や電話オペレーターの仕事をしながら、時々資格試験の教室などに通っていた。あるパソコン関連の資格を取る為の長期講習の場所で、私とMさんは知り合った。そこを終える頃に、Mさんは新しい職場に派遣され、同時に私も転職を果たした。私の転職先が休日があってないような職場だったのが、つまりはMさんを自由にさせる遠因ともなったのだ。
Mさんが派遣されたのは、地元でもかなり大きな精密機械のメーカーだった。そこでトレースの仕事をMさんは任された。実際にMさんがどんな仕事をしていたのかは、私は分からない。付き合っている当時、パソコンの操作に関する話はいくつかした記憶があるが、詳細な仕事内容までは踏み込まなかった。Mさん自身があまり職場の話をしたがらなかったというのもあって、それも何か今となっては意味深長な配慮だったような気がする。
Tomorrow and Tomorrow
派遣先の精密機械メーカーは、全国各地に営業所があって、そのうちいくつかに工場も併設されていた。本社は東海地方にあって、海外にも工場を持っている。Mさんの派遣先にも工場があり周辺地域の中核営業所という位置づけだった。そこの工場で生産する部品の図面を、清書するのがMさんの仕事だった。といっても、OLの事務仕事や、上司の業務補助、というようなことも任されていたらしいが、はっきりとは分からない。
ただ、その部署には統括する立場の者がいなかった。全ては本社の方にいわゆるまとめ役の部長がいて、そこで一元的に管理されていた。図面を扱う以上、開発と密接に関係があり、二次的な意思疎通の不合理さを解消する為に、そのようなシステムになっていた。機密漏洩への対策もあったのだろう。そのために、本社付けの部長が月に一度、あるいは二ヶ月に一度の割合で、Mさんの派遣先に赴いていた。
その部長は、全国を順次回っていて、工場のある各営業所に、一週間程度滞在して業務をこなす。いくつかの大まかな部品の系列があって、系列毎にそういう役割の担当者がいたらしいが、Mさんの派遣先は、そのうちの一系統を専門に扱っていて、渡り鳥のような部長は一人に固定されていた。写真を見た限りでは、それほど仕事のできるようには見えなかったのだが、それなりに信頼は得ていたという事だろう。
その部長と、Mさんは関係を結んでいたらしい。しかも、Mさんが派遣されて直ぐ、二人はそういう仲になったという。まだ私と知り合って半年ほど、付き合って三ヶ月経つか経たないか、の頃だ。そういう事実を知ると、私のアプローチが少しでも遅ければ、現実はもっと大きく変わっていたのかもしれないと思う。少なくとも、私とMさんが付き合うことはなかったのではないか、と思うのだけれど、逆に付き合ってしまったのも、運命の悪戯と思えなくもないのだった。
I Talk to the ind
業務のほとんどを本社にある自分のデスク以外で行うその部長は、各営業所の近くに部屋を借りていた。もちろん、会社が用意した安普請のアパートだが、いちいちホテルに泊まるよりも、固定した場所を回るのでその方が効率的らしい。Mさんの派遣先の部長が滞在するアパートが彼女の住むマンションの目と鼻の先だった、というのがそもそも二人が近づくきっかけだったらしい。
部長はMさんの派遣された部署に根付いてはいなかったが、名目上はまとめ役で、そこにいた何人かの社員も彼の部下という格好になっていた。部署と言うよりはチームのような感覚で、社員も派遣も関係なく、まとまりは良かった。それは部長の人格的な部分が大きく作用されている、とMさんは派遣されて直ぐに気がついた。就業して直ぐには逢えなかったが、何日か経ってその部長が訪れたタイミングで、Mさんの歓迎会が開かれたのだ。
その席上で、部長は良く気のつくサーバーだった。幹事は他にいたけれど、部長が率先して他の社員を盛り上げ、派遣されたばかりのMさんを気遣った。チームに溶け込めるように、部長が心を砕いていた。それはもちろん、部長の役割でもあったが、一方で何かMさんに対して通じるものがあったということもあったようだ。それは、Mさんも同様で、言葉では言い表せない、予感と言うべきか、シンパシーのようなモノを直感で感じ取ったのだ。
まるで仕組まれたように運命というモノは、タイミング良く事を運ぶ時がある。その惹かれ合うとまでは自覚できなくても、心が重なるような淡い感覚に気づいたところで、歓迎会はお開きになった。そこで部長がMさんを送っていくことになった。滞在先では各所の営業用の社用車を通勤使っていて、その日もそれに乗っていた。家が同じ方向だと分かると、部長は進んでMさんを送る役を買って出たのだった。
Moonchild
帰り道をMさんがナビゲートして、最後は一本の産業道路へと入った。その道を暫く行くとMさんの住むマンションの入り口に辿り着く。信号を曲がってその道を走り出した時、部長は帰り道と一緒だ、と驚いたようにMさんに云った。マンションに辿り着く手前に自動販売機が並んだスペースが有り、そこに車を止めた部長はそこから見えるアパートを指さした。同じ様な作りのアパートが並んでいて、そこが借りている部屋だと告げた。
つまりMさんとその部長は目と鼻の先に済んでいたのだった。そこまで近いとは当人達はまったく思っておらず、部長がゆっくりと車を走らせて、まさしくアパートの前で再び止まると、その偶然に二人共が驚きを新たにした。そこで、部長は半分戯れに、少し寄っていくかい?とMさんを誘った。家は目と鼻の先で、歩いても十分も掛からない。車だとあっという間だ。多少の寄り道に躊躇する距離ではなかった。
Mさんは少しだけなら、と誘いを受け入れた。すると部長は車をまたスタートさせ、一番奥まった所の部屋へと車を止めた。二階建ての細長い作りの建物が、ずらりと横に並んでいる。その一番奥の部屋が部長の部屋だった。玄関の前には緩く道路に向けて傾斜の着いたコンクリートを張った駐車スペースが有り、そこにバックで車を止める。隣にも人が住んでいるようで、一台のバイクが止まっていた。
単身者向きにしては、二階建ては広過ぎる気がしたが、中に入ると細長い奥行きで、部屋数は二階と合わせても三部屋しかなく、あとはダイニングキッチンと、トイレ、バスルームという簡素なモノだった。子供のまだ小さな家庭なら家族でも住めそうだが、単身者には十分すぎる。一応妻帯者である部長を気遣って会社が借りたのだろうが、肩書きに比べるとなんだか貧相で、Mさんはどこかかわいそうな気がした。
Facts of Life
狭い玄関を入ると直ぐに細長い廊下が有り、横がダイニングキッチンで、突き当たりがリビングになっていた。その手前に階段が見えていて、その隣にバスルームとトイレが並んでいた。外観と変わらず、簡素な壁の印象が強くて、装飾の跡がない。本当に人が住むだけの最低限の機能を詰め込んだような部屋だった。狭いだろう?と部長は苦笑しながらMさんに紹介したが、何とも返答に困った。
それでも月に一週間か十日程滞在するには、ホテルよりは落ち着くだろうが、どこかもったいないような気がした。家賃は会社持ち、だからこそなせる技なのだろうとMさんは思った。まだそういう余裕があるのが、大企業の強みだ。中に通されてリビングに入ったが、ソファが一つと、テレビがあって、壁に押しつけるように横に長い棚が置かれてあった。テレビの横の壁の梁にハンガーが掛けてあり、そこに部長はスーツを脱いでぶら下げた。
唯一部屋の隅に間接照明のスタンドが有り、それだけがいくらか装飾らしい雰囲気を醸し出していたが、それも殺風景な印象を拭うまでには至らなかった。しかも、部長は壁のスイッチを入れて蛍光灯の明かりを点け、間接照明は使わなかった。白色に縁取られたリビングは、いっそう空疎な印象を際立たせていた。床には雑誌と新聞が無造作に置かれていて、仕事の書類が束になってその上に重ねられていた。
ソファに座るよう部長は促して、お茶でも淹れるよ、とキッチンに行こうとしたのを、私がやります、とMさんが押しとどめた。送ってもらったんですから、とMさんは付け加えてキッチンへと向かおうとした。何もないから、といくらか照れくさそうな顔をした部長に笑いかけて、キッチンへの扉を開けた。背後で壁を部長が手で撫でると、キッチンの蛍光灯がパッと閃いた。そこは、リビング以上に何もない、ガランとした空間だった。
Eyes Wide Open
玄関のある方角に面してシンクとガス台があったが、簡単な食器以外に調理用具のようなモノはほとんど置かれてなかった。ヤカンと電気ポット、あとは背の低い食器棚の上にレンジとオーブントースターが並べてある以外、見当たらない。それ以上に、本来ならダイニングテーブルが置かれるであろう場所に、何もなく場違いなほどに鈍い輝きを残したフローリングの床が、いっそう空虚な広さを強調しているように見えた。
人の住む気配が希薄なのは、最も必要な食に関するその場所が、殺風景な雰囲気を漂わせていたからだと、Mさんは思った。Mさんはヤカンに水を入れてコンロにかけてから、食器を眺めるように背を屈めた。食器棚には、インスタントのコーヒーがあるだけで、来客が少ないのか、カップもちょうど二人分しか無い。シンクにはまだ洗っていないマグカップが無造作に置かれてあった。
それでも二人分のコーヒーを入れてリビングに戻ると、ネクタイを外した部長は手持ちぶさたに、ソファに座っていた。背がキッチンの方に向いていて、二つの部屋を分けていた。だからMさんは一度廊下に出て、再びリビングに入ることになった。そこでふと、そこにもテーブルがないの気がついた。仕方なくそれぞれがカップを手に持って、ソファに並んで座った。
月に一週間の滞在で、食事はほとんど外食か、コンビニの弁当で済ませ、朝はほとんど通勤の車の中で買って置いたパンを食べる、と部長は説明した。だから、テーブルも食器もあまりいらないんだよ、と頭を掻く。本当に寝るだけの空間だから、と言い訳のようにいったが、それでも一応部屋があるのは安心感があっていい、と付け加えた。他ではどうしてもホテル住まいになってしまう場所もあるし、会社の寮の一室を宛がわれて、狭い空間に押し込められてしまうこともあるのだ、と部長は笑ったのだった。